わたしの好きの基準

こんばんは。

 

友達と恋バナすることが多くなって、自分にとって好きとはなんだろうと考える機会が多くなりました。

なので今日はわたしの好きの基準について話します。とっても自己満足です(^-^)笑

 

昔から、熱烈に誰かを、何かを好きになることはありましたが

いわゆる熱しやすく冷めやすい性格で、すぐに別れたり、飽きたりすることが多かったです…(申し訳ないです)

 

今は、そういう気持ちはあまり無く、

人を傷つけてしまうことを恐れて、かなり慎重に人を好きになるようになりました。

熱烈に、衝動的に好きになって愛することがあまりなくなり、静かで落ち着いた愛情に変わりました。

 

そのような淡く弱い気持ちしか持てない中で、人を傷つけることは減りましたが、同時に「好きとは何か」がわからなくなってきました。

 

いろんな悩みに埋もれる中で、どんどん好きという気持ちが薄れていき、

自分にはもう好きという気持ちがなくなってしまったんだろうか、みんなのように誰かを好きになってはしゃいだり、泣いたり出来ないのか

と思うと、無性に寂しくなりました。

 

でも、色んな人の言葉を聞き、心を落ち着けていく中で、Twitterでとても素敵なことを呟いている方に出会いました。

 

いつも丁寧な口調で、内容がとても穏やか。誰かが傷つくようなツイートは決してせず、とても素晴らしい方なのに自惚れることは決してない。

その方は「せっかくフォローしていただいているんだから、私のツイートを見て楽しんでもらいたい」と述べていました。

また、「とにかくフォローフォロー外構わず暴言と言う名の包丁を振り回している時期が私にもあった、でもそれは生きる疫病神のようなものだ」とも仰っていました。

 

本当に今までの自分が恥ずかしくなりました。

暴言を吐いたり嫌味なツイートをしたりして、色んな人に嫌な気持ちにさせていたんだな、と思い反省しました。

と同時に、このことに気づかせてくれたその方に、大変感謝しました。

そして、「この人のことがとても好きだ」と思いました。

 

その人のツイートを見ると、いつも幸せな気持ちになれます。心が洗われるような気持ちになり、今日も笑顔で頑張ろう、と前向きな気持ちになります。

そのような気持ちにさせてくれるその方を、わたしは日に日に尊敬していきました。そして、その方が男だろうが、女だろうが関係なく、お会いしたい、お話ししたい、お友達になりたいと思いました。

その人についていきたいと思いました。

 

私にとっての「好き」はこのような気持ちだと思っています。

その相手が同性でも異性でも関係ありません。

好きなことには変わりないと思います。

 

もし、付き合う、結婚するとなれば、好きなだけでは足りませんが

「好き」な人を単純に選ぶのであれば、これが私の基準となります。

 

付き合うとなると、容姿や趣味など、内面以外の点も考慮しなければならないので、非常に厄介ですね。

 

私が誰かを好きになるのと同様に、私も誰かに好きになってもらえるために、自分をもっと良くしていきたいなと思います。

好きな誰かに合わせるのではなく、自分の中の最高の形を愛してくれる誰かに出会えることを祈って、日々過ごしていきたいです。

 

今年もクリスマスに彼氏できそうにないですが(別に焦ってはいません)、明るく、楽しく頑張ります\( ˆoˆ )/

家事しようぜ

ご飯を作っている時は、だいたい母のことを思い出します。

いい思い出もあれば、嫌なことを思い出す時もあります。

今日は、父と母のことを思い出していました。

 

母は典型的な専業主婦で、父は典型的な一家の大黒柱的存在です。恐らく今では少なくなってきた、昭和風の家庭です。

 

家では母が家事を全て担当し、父は仕事のみに集中していました。因みに、母は家でピアノの教師もしています。

 

母が必死の思いで家事をする傍ら、テレビをみてダラダラしている父を見ていつも思っていました。なんで手伝ってくれないの?と…

 

でも、父がゆっくりしたい気持ちもものすごくわかります。仕事が夜遅くまであり、疲れ果てて気遣う余裕もないんだろうと思うからです。

私も高校の時までは自分のことで一杯一杯で、家事の手伝いなんかしてませんでした。 

 

父に「家事できないの?」と聞くと、「やらないだけで、やればできるんや」と答えられ、その時はあははと笑っていましたが、今思うとものすごく怒りと悲しい気持ちでいっぱいになります。

 

パパ、そう言って2,30年ずっと家事してへんやん。

 

やればできると言いながら、やろうとすらせず何年も母に任せっきりの父を見ると腹がたつ一方で、仕事がそこまで忙しくて精神的に余裕のなくなるものだと思うと、本当に悲しくなります。なんとかならないものかとずっと思ってきました。

 

私もそうですが、父もわりと余裕がなくなると周りが見えなくなるタイプだと思うので、仕方がないのでしょう…

 

ですからこの際、父のことはもう放っておいて、いざとなったら私が母を手伝うとして(おい)

問題は弟です。

 

料理はできない、片付けも掃除もできない、洗濯もできない、自分で服すら選べない(これは私も)。

とりあえず家事全般ができない。一人暮らししたらすぐ家がゴミ屋敷になるタイプ。

できることといえば勉強とスポーツくらい…?

 

本当に父の小さいバージョンみたいになっていて、また誰か女の子を犠牲にするんじゃないかと思うと先が思いやられて頭が痛いです。

 

もうはっきり言いますが

 

いま家事できない学生、将来どうするつもりなんですか??

 

だいたい出来るよ!とか、完璧にできる!っていう人は本当に素晴らしい方です。尊敬します。

女の子だけじゃなく 男の子でも家事うまい子が周りに多くて、ほんと凄いなぁ、努力家やな、素敵やなって思います。思うんですけどそうでない方もいらっしゃいますよね…

 

これからの時代、私の両親のような専業主婦と大黒柱系の家庭は減っていきます。実際、専業主婦の数は減少傾向にあるというデータも存在しています。

 

そうなると、共働きという選択肢が生まれてくるわけですが、

その場合、もちろん家事は二人で分担することになると思います。

お互いの仕事量を考えて、半々では無いにせよ、いくらかはお互いに負担することになるはずです。

そうなった時、「俺・私家事できないんだよね」では困りません??いや困るわ

 

そうなった時から練習すればいいじゃん、と言うかもしれませんが、社会人ってものすごく忙しいんじゃないですか?

言ったら大学の1限から5限まで拘束されますよね?もっと遅くに終わるところももちろんありますし。そんな中練習時間を取るのってものすごく難しいと思います。

 

高校、中学の時に練習しておくことも大事ですが、大学まで進学したのであれば「人生の夏休み」と言われる大学生時代に家事に慣れておくべきだと思います。

 

他にたくさん楽しいこともあって、目移りしてしまう気持ちはものすごく分かるし私もそのタイプなのですが、

ちょっとでもいい、洗濯でもアイロンがけだけでもいい、少しでも将来のパートナーの助けになれる技術を身につけておくことが、これからの社会で生きていく上でとても役に立つと思います。

 

RTで見た「自分が何もしてあげられないのに、よく好きになってもらおうと思ったね」みたいな…?そんな感じのセリフ、そっくりそのまま「料理も掃除もできねーわw」って笑い話にしている人たちに捧げます。

料理も掃除もできない人は、これからは多分、売れませんよ…

 

私も誰かに好きになってもらえるように、家事を今のうちにある程度できるようにして、勉強も頑張り、いろんな知識を身につけられるよう努力していこうと思います。

 

まずは明日の1限出ます(´;ω;`) いや無理……

 

 

 

今日授業だけど勢いに任せて書いた

 

沢山RTされているので見られた方もいるかもしれませんが、Aセクの人が「なんで彼氏いないの?」「同性愛者なんじゃない?」などと言われる漫画がありました。それを見て、ちょっと思ったことがあるので書いていきたいと思います。

 

読んで思ったのは「普通っていうのは多数派の価値観の押し付けだよな」ってことです。

例えば、わたしは「普通に」二本の足で歩けるけど、そうじゃない人もいる。でももし、わたしがそうじゃない人に対して「歩けるよね?」といえば、それは意見の押し付けになります。

(また、こうやって無意識のうちに「普通に」って付けちゃうところも、意見の押し付けのように感じます…)

 

押し付けられたほうは辛いと思います。

わたしは辛いなぁ…と思うことが多々ありました。

中高六年間、呑気症という精神的な病気に悩まされてきたのですが、その病気のせいでほんとうに毎日の学校が憂鬱でした。学校にいる時が一番酷くなる病気なんです。でも学校に行くこと、逃げ出さないことが「普通」だから、泣く泣く登校していました。

不登校」「学校から抜け出す」なんて「普通じゃない」ことは、勇気がなくてできませんでした。

 

こういった「普通」は、多くの人が思い、言うからこそ力があり、そのために世の中に浸透していくんだと思います。

その代わり、「普通」の波に侵食されて、「普通でない」人は自分の口を閉ざしてしまうことになります。

なぜなら、「普通じゃない人」は少数派なわけで、その意見を口に出せば、多数の人から一斉に批判を浴びてしまうからです。それが怖くて、何となく言えないところはあるんじゃないかなと思います。

日本では特にこういう傾向が大きいんじゃないでしょうか?たとえば授業で、みんなの意見と自分の意見がちょっと違っている時、何となく言いづらく感じるとか。

 

もちろんそこで止まってはいけないと思います。実際、負けずに意見を述べている人は沢山いますし、冒頭に述べた漫画の方もそうだと思います。

 

それもそうとして、多数派の方の意識を変えることも必要なんじゃないでしょうか?

私は一年の時からスピーチをちょいちょい書いてきましたが、トピック選びの際に「この問題で苦しむ人が多いこと」を基準にかなりの数を足切りしてきました。苦しむ人が多ければ、観客に関係がある人が増えるから、より多くの人に聞いてもらえる。という理屈です(確か)

 

でもなんかそれっておかしいと思うんですよ。

 

わたしが書いた子育ての苦しみなんかだったら、世の中の子供のお母さんお父さん、そのまたお母さんお父さんというように、たくさんの人が苦しみの経験者だから、たくさんの人が耳を傾けてくれる可能性があります。

でも、例えば呑気症なら、殆どの人が未経験者で、正直言って共感もできないし、どうでもいい話だと思うはずです。

そこがおかしいと思うんです。

「普通の」人にはわからない苦しみを抱える人の意見は、流され、潰されがちです。だから、そういった人の意見こそスピーチとして壇上で発表すべきであり、また観客もそれに耳を傾けるようにすべきではないのでしょうか。

 

もちろん、発表する側も表現を工夫したり、何らかの努力は必要ですが、多数派となる観客の意識も変えていくべきだと思いました。

 

漫画の筆者さんの言葉を借りると、「普通でない人もいると知っていてほしい」ってだけです。あなたの普通が当てはまらず、人知れず苦しむ人もいるんだよ〜ってわかってもらえたらそれでいいと思います。それをわかってもらえた上で、「普通に」接してもらえたら嬉しいなと、私は思います。

 

自分の考えのまとめとしてTwitterに投稿しただけですが、数時間後には消されるかもしれません。誰かの目に少しでも留まれば嬉しいです。

 

クラスやグループのランキング系では変人キャラの上位に大体ランクインする今西でした。