今日授業だけど勢いに任せて書いた
沢山RTされているので見られた方もいるかもしれませんが、Aセクの人が「なんで彼氏いないの?」「同性愛者なんじゃない?」などと言われる漫画がありました。それを見て、ちょっと思ったことがあるので書いていきたいと思います。
読んで思ったのは「普通っていうのは多数派の価値観の押し付けだよな」ってことです。
例えば、わたしは「普通に」二本の足で歩けるけど、そうじゃない人もいる。でももし、わたしがそうじゃない人に対して「歩けるよね?」といえば、それは意見の押し付けになります。
(また、こうやって無意識のうちに「普通に」って付けちゃうところも、意見の押し付けのように感じます…)
押し付けられたほうは辛いと思います。
わたしは辛いなぁ…と思うことが多々ありました。
中高六年間、呑気症という精神的な病気に悩まされてきたのですが、その病気のせいでほんとうに毎日の学校が憂鬱でした。学校にいる時が一番酷くなる病気なんです。でも学校に行くこと、逃げ出さないことが「普通」だから、泣く泣く登校していました。
「不登校」「学校から抜け出す」なんて「普通じゃない」ことは、勇気がなくてできませんでした。
こういった「普通」は、多くの人が思い、言うからこそ力があり、そのために世の中に浸透していくんだと思います。
その代わり、「普通」の波に侵食されて、「普通でない」人は自分の口を閉ざしてしまうことになります。
なぜなら、「普通じゃない人」は少数派なわけで、その意見を口に出せば、多数の人から一斉に批判を浴びてしまうからです。それが怖くて、何となく言えないところはあるんじゃないかなと思います。
日本では特にこういう傾向が大きいんじゃないでしょうか?たとえば授業で、みんなの意見と自分の意見がちょっと違っている時、何となく言いづらく感じるとか。
もちろんそこで止まってはいけないと思います。実際、負けずに意見を述べている人は沢山いますし、冒頭に述べた漫画の方もそうだと思います。
それもそうとして、多数派の方の意識を変えることも必要なんじゃないでしょうか?
私は一年の時からスピーチをちょいちょい書いてきましたが、トピック選びの際に「この問題で苦しむ人が多いこと」を基準にかなりの数を足切りしてきました。苦しむ人が多ければ、観客に関係がある人が増えるから、より多くの人に聞いてもらえる。という理屈です(確か)
でもなんかそれっておかしいと思うんですよ。
わたしが書いた子育ての苦しみなんかだったら、世の中の子供のお母さんお父さん、そのまたお母さんお父さんというように、たくさんの人が苦しみの経験者だから、たくさんの人が耳を傾けてくれる可能性があります。
でも、例えば呑気症なら、殆どの人が未経験者で、正直言って共感もできないし、どうでもいい話だと思うはずです。
そこがおかしいと思うんです。
「普通の」人にはわからない苦しみを抱える人の意見は、流され、潰されがちです。だから、そういった人の意見こそスピーチとして壇上で発表すべきであり、また観客もそれに耳を傾けるようにすべきではないのでしょうか。
もちろん、発表する側も表現を工夫したり、何らかの努力は必要ですが、多数派となる観客の意識も変えていくべきだと思いました。
漫画の筆者さんの言葉を借りると、「普通でない人もいると知っていてほしい」ってだけです。あなたの普通が当てはまらず、人知れず苦しむ人もいるんだよ〜ってわかってもらえたらそれでいいと思います。それをわかってもらえた上で、「普通に」接してもらえたら嬉しいなと、私は思います。
自分の考えのまとめとしてTwitterに投稿しただけですが、数時間後には消されるかもしれません。誰かの目に少しでも留まれば嬉しいです。
クラスやグループのランキング系では変人キャラの上位に大体ランクインする今西でした。